絵本や詩の翻訳には言語能力や翻訳技術だけではなく、プラスαのイマジネーション力が必要だ。日本は世界の中でも特異な歴史を有し、地政学的にも緊張感のある地域に位置する。
それゆえ日本人は民族としてもユニークで深みのある言語文化を培ってきた。しかし、同時に世界は広く、数多くの民族が集い、それぞれの国や民族がユニークな文化と言語に根ざした多様な魅力と活力に溢れる社会を築いている。社会の多様性は自然界の多様性にも通じていると直観された。カクイチ研究所が絵本の制作に挑戦したのは、そんな未だ十分に紹介されているとは言えないそれぞれの国々の歴史や文化の多様性と、それを世代を超えて伝える意味の深層を共有する可能性が、翻訳にあると思ったのだ。それに表層的かもしれないが、この困難は商いの原点にも共通しているように思われた。欲望と満足の座標軸上に指し示される価格と品質が、誰もが疑うことのない経済とビジネスの原理原則であることは否定しない。しかし、まだ知られていない未知の価値の発見と創造を志す上で、このものさしは障壁である可能性があることだ。
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何年か前の春先、私はしつこい風邪に悩まされ体調不良だった。虫歯の治療に使われているアマルガムには水銀が含まれ、わずかずつだが長い間にその毒素が体内に抽出され、不調をもたらすリスクがあるという話を思い出した。そういえば昔、やはり体調不良の続いた家人が薦められて遠く九州、福岡のMクリニックの歯の噛み合わせ調整治療に通った。その折、最初はこの合金を除去し、金ベースの充填に入れ替えることだった。噛み合わせ調整以来、家人は至って元気を続けているし、水銀やアルミニウムが認知症の遠因などという話もあったから、気にし始めると不思議に歯から金属の味を感じるような気がし、的外れな散財だったが、健康のために古い充填剤をすべて金に替えることにし、近くのK歯科クリニックに通い始めた………前置きが長くなったが、奇妙な歯科通いを始めたことと、このK医師の待合室に十数冊の絵本が置かれていたという偶然が、絵本制作の直接の動機となったのだから、人生はわからない。『ウンチの本』とか、『ブルーナのうさぎ』とかに混じって、かなり大判の素っ気ない雰囲気の3冊の絵本が目に止まった。
1冊はジャン・ジオノ(文)フレデリック・パック(絵)の『木を植えた男』、残りの2冊はフランスの絵本作家ティエリー・デデューの『ヤクーバとライオン』勇気と信頼の2部作だった。『木を植えた男』は、まだ幼かった子どもたちのためにいつも何か素敵な絵本はないかと探していたころ、何度も手にしていた。戦争で荒廃し続けた山に何年も目立たぬ植林を生涯を通して続けた寡黙な羊飼いの老人の物語のことを、自身も老境に差し掛かろうというときに、はっきりと覚えていた。『ヤクーバ』の試練の物語は、少年ヤクーバが村人に一人前の部族の戦士と認められる条件は、自分一人の力でライオンを一頭仕留めることだった。だが、ヤクーバが遭遇したライオンは傷つき死にかけていた。結局、少年は手負いのライオンを殺し、村の勇者となることではなく、殺さない勇気の方を選択したのだった。そのために、村人から勇者として認められることはなく、侮蔑に耐える人生を選択することになってしまった。しかし、物語はこの「本当の勇気とは何か?」という課題からはじまり、「本当の信頼はどのように形成され、本当に守られるべきものなのか?」という方向に進んでいく。異様なほどに大胆に黒々と太い線で描かれたヤクーバとライオンの戦いを描いた絵が雷撃となって私のこころを撃ち抜いた。
そして、たった数分で読むことができる一冊の本に、人間は無限のエネルギーを汲み取っていることを感じた。宮沢賢治の「農民芸術概論要項」のコトバが流星のように飛び交い、同時に、いままで、「どこにどんな木を植えてきたのだろうか?」と自問していた。寡黙を貫き、胸を張って、ほがらかに生きること、そして次の世代のための木を植えようと思った。
それから、そのための必要なことを準備する決意した。多分それ以外には説明する方法が見つからないと。
絵本解説